リネンコ日誌(3)副産物
こんなことしてる場合じゃないのだけど!
2025-09-02
新刊について、さっそく反響ありがとうございます。『そのかねを』は数年前からこうしてずっと書籍化を待っててくださった方もいるはずで、なるべくきちんと周知していきたい。「ウェブから消えて読めなくなった記事」「雑誌に載ったきりの原稿」などを、うまいこと拾って手元で紙束に綴じておく。自主制作、まずはそこから。
記事へのlikeも嬉しいし、リンクが踏めないといった不具合の報告も大変助かります。Substackを日本語で使うとスパム扱いを受けやすいというのは見知っていたが、各種広告ブロック機能に抵触することもあるようだ、というのは初めて知りました。
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日本語圏SNSでは、白央篤司さんの「ライター稼業の整理」というスレッドから、「ライターが記事書きだけで人並みに食っていけると思うか?(いや、ない)」が話題。私も問題提起に共感し、あれこれ書いた。
2000年代に編集者を、すなわち発注スル側を務めた時代から、プロのライターが支える雑誌文化が衰えていく、その最後を見つめる感覚はあった。お世話になった上司にはフリーランス出身者もいて、「女性問題を扱う骨太のルポを誌面にたくさん載せたいが、それに足る取材費を出せないのが口惜しい」と嘆いていた。そして自分が受注スル側に回ると、「そんな値段で、その体制で!?」と驚く依頼実態もたくさん見て、古巣はまだマシだったのだなと思い知る。
自分はうまいこと食えてます、と胸を張る現役ライターの声もいくつか見たけれど、白央さんが書くのは個人の立ち回りではなく業界構造の話である。もっというと「老後に備えて稼業の整理が要る」という話で、組織人だって他人事ではない。速報系記事の執筆やニュース動画の編集などは、かつてのテープおこし同様すぐAIに置き換えられるだろうし、取材先との接渉といった雑事は本来は編集業務であるから、原稿料だけで請け負えるか、とも思う。
こうなることは明らかだったのだから四半世紀前から見通して手を打っておいてくれよ、という嘆きは、いつまでも同じ構造の下で小さな仕事を振ったり請けたりして「自分たちさえよければいい」と考える人々には、届かないだろう。このあたり、日本演劇界の綱渡り感にも似ている。原稿料はどんどん安くなり、チケット代はどんどん高くなり、夢を抱いて集まる志望者は多いのに、みんな「仕事」として成り立たない。「皿先行」を打つ興行主や、逆に文学賞の「該当作なし」について責めるような人たちと、同じ舟に乗ってこのまま流されていくことは、私にはできないよ。
『我は、おばさん』刊行直後、「あれと同じことを新書フォーマットで書いてください」という依頼が来たことがあった。日本国内では、物書きは「年に何冊も本を出さないと忘れられてしまう」職業と見做されているから、一冊書けば何冊もネタを使い回せますよ、というのは有難い誘いだったのだろう。でもまぁ結局は流れて、正直少しホッとした。読者規模が桁違いの英語圏では、物書きはもっとずっと長いスパンで仕事をする。私が母語で単著を何冊か出したと自己紹介すると、周囲が勝手に「アガリ」扱いをしてくるほどだ。もちろん実態は全然違うんだけど、所変われば職業観も変わるということ、忘れず念頭に置いておきたい。
久しぶりに「椅子の話」も思い出した。社会における自分の椅子はいったいどんな姿かたちか、と考え続けていて、自主制作プロジェクトを始めたのも、その一環と言える。今の自分には、「人間工学にもとづいて設計された、座るだけで健康になれると謳われる椅子に、間違った座り方をしている」ような感覚がある。座り方を改めるか、椅子を取り替えるか、どうにかしたい。誰かの椅子が自分に回ってくるのを待つのではなくて、これはもう「自作」するしかないのだな、との気持ちは、加齢とともに、時代変化とともに、年々強まっていく。片手で持ってどこへでも好きに移動できるような椅子がいいですね。
2025-09-04
Blueskyで「岡田育さんはいつツイッターをやめられるのだろう」という投稿を見かけた(※晒す意図はないので出典割愛)。尊敬語かな、可能動詞かな。私が「Twitterをやめた」宣言をしたのは2023年5月のことだが、今なお、よく言われる。X/TwitterとInstagramについては、他のものよりは比較的アクティブに「居る」印象が強いはずで、気持ちはわかる。
「やめる」が「アカウントを削除する」の意味なら、その日は来ないだろう。X/Twitterに限らず、多くのWebサービスのアカウントを残してある。mixiもfacebookもPixivもTumblrもnoteもLinkedInも、もう更新しないし戻ることもないが、抹消もしない。ここまで悪質な乗っ取りやなりすましが横行するご時世、インターネットから「居なくなる」のは筋が悪い。ログは残しつつ、荒らされぬよう定期的に点検保守しつつ、誤解を招きやすい過去の失言については新しくアップデートした言葉を重ねていくのがよいと考えている。
一つ前の日誌で書いた通り、「私もうInstagramやめたんだけどさぁ」「私もだよ、Threadsにはちょっと棲めないよねぇ〜」などと愚痴りながら、消極的な連帯を示して社交辞令と代えるくらいがちょうどいい。いずれは万人と「Blueskyで繋がろう」と言い合えるのが理想だが、今は「X/Twitterはやめたんですよ、本人以外にはわかりづらいですよね、我ながらわかりづらいと思うので、何度でも説明しますね」としつこく言い続けていく。
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2007年にTwitterを始めたとき、私は物書きどころかブロガーですらない、無銘の会社員だった。そこからほとんどtweetだけで文筆家という肩書きを得た。文字通り「Twitterバブルに育てられし者」だが、だからこそ、イーロン・マスクのXを断固拒否することに、Blueskyという新天地に軸足を移して、昔と変わらず自分らしく楽しくSNSライフを送ることに、大いに意義を見出している。
「定期的に覗きに行く、無言RTもするが、現在のX/Twitterが『賑わう』『肥やし』となるような投稿はしない」くらいの感じで、大通りでハンガーストライキをするかのように「やめた」と言って回っている。「でも、水は飲んでるんじゃん」と言われたら、それはそう。私だってX/Twitterへの抗議で命まで落とすわけにはいかない。あと、別に他のXユーザを殺りに行く気もないですよ。非暴力抵抗運動なので。
これは、どれだけの絶縁状態にあっても時々は「実家」に顔を出さねばならない、というのと似た話だろう。自分より後からやって来て、絶対にそこを離れられないと信じ込んでいる甥姪たちに、「親戚づきあいをやめた、海外に住む、親とは異なる家族観を持ったおばさん」の姿を見せ、聴こえるように「星から降る金」を歌い上げて家出をそそのかし、場に緊張を走らせる。そのくらいのパフォーマンスは、魂の「実家」であるX/Twitterでも続けていくと思う。
みんなもどしどし「X/Twitterをやめた人」を名乗っていけばいい。「あの程度ではやめたうちに入らない」と言ってくる連中は、無視すればいい。本人が「やめた」自認なら、それが尊重されて然るべきだ。もしも、酒をやめて二年以上経つ人間に対して「そんなの『真の』断酒じゃない!」と責める奴らがいたら、そいつらのほうがよっぽど、酒よりずっと悪いものに毒されていると思う。
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さまざまなスモールビジネスの事業主が、「俺たちみたいな弱小個人レーベルは、まだまだX/Twitterの広告宣伝効果を手放すわけにはいかない! だから仕方なく必要経費として課金青バッヂを付けるんだ!」と言う気持ちだって、大変よくわかる。でも今現在のX/Twitterからは、「持たざる者、名も無き個人にも、巨大資本並みの効果をもたらす、強力な宣伝ツール」という強みはとうに失われている。気が向いたときだけ告知に戻る私には、昔との違いがよくわかる。
そうしてこれからの時代、俺たちみたいな弱小個人レーベルもまた、大企業と同じように、「虐待紛いの動物実験をせずに植物由来の成分だけで作った化粧品です」「フェアトレードにもとづき生産者にきちんと利益が配分されるビジネスです」「創業者以下すべてのスタッフが差別を容認していません」といったステートメントの表明が重要になってくる。私はむしろ「この同人誌はイーロンマスクに餌を与えずに執筆制作されています」と言って回りたいくらいなのだ。
……と、Blueskyに書いたら好評だったので、じゃあステッカーでも撒くかなと思って気まぐれにIllustratorいじっていたら、もうこんな時間。そんなことしてないで原稿を、原稿を書けよ……!! 作ったはいいけど、日本国内ってこの手のパロディ制作の肖像権やロゴ無断使用にうるさい印象あるので、やるとして「文学フリマ」でのゲリラ配布くらいかなぁ。ゲリラなら文学的行為といえるし、無料配布ならアジビラ扱いで不問では? 甘いかな。ところで丸ゴシック体って何故か異様に外国人ウケがよく(ひらがなカタカナのフォルムが日本語独特でイイみたい)、日本にいたときは全然使わなかったのに、最近は隙あらば使ってしまう。
Substack然り、物理的な即売会出店しかり、いろいろ考えて頑張ってるから、どうぞ応援してね、とは思っている。でも、頑張るのも、応援するのも、それ自体には、あんまり変なカネの毟り毟られが発生しないようにしたい。具体的に言うとオンラインサロンとかはやる予定がない。ちょっとでも投げ銭もらうと反射的にヘラヘラ揉み手で媚びへつらってしまう気質なのは、自分が一番わかっている。文筆家という肩書で活動する以上、売るとしても書いたものだけにしておきたい。書いたものが売れたら嬉しいけど、そのために魂を売ることまではしたくない。魂を売りたくない、と書く自由のために、あれやこれやを試します。



